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ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・プファルツ=ジンメルン(Ludwig Philipp von Pfalz-Simmern, 1602年11月23日 ハイデルベルク - 1655年1月8日 クロッセン)は、ドイツのプファルツ=ジンメルン家の公子で、プファルツ=ジンメルン=カイザースラウテルン公(在位1611年 - 1655年)。プファルツ選帝侯領の事実上の摂政(''Administrator'', 在任1632年 - 1634年)を務めた。 プファルツ選帝侯フリードリヒ4世とその妻でオラニエ公ウィレム1世の娘であるルイーゼ・ユリアナの間の末息子として生まれた。1610年に父が死ぬと、兄のフリードリヒ5世が選帝侯位を継いだ一方で、ルートヴィヒは父の遺言によりシュポンハイム伯領(Grafschaft Sponheim)とジンメルン公領を与えられたが、これらの所領は1653年に本家の選帝侯家に返上させられた。 フリードリヒ5世がボヘミア王に選出されると兄に随行してボヘミア入りし、1620年の白山の戦いが起きるまではブレスラウ司教領に滞在していた。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の命令でボヘミアがスペイン軍に占領されると、家族とともに亡命者となった。1632年、三十年戦争に介入してきたスウェーデン軍は、占領したジンメルン公領にルートヴィヒを帰還させ、プファルツ選帝侯領の摂政に任命した。しかし1634年にネルトリンゲンの戦いにスウェーデン軍が皇帝軍に敗れると再び故国を追われ、フランケンタールを経由してスダン公領に落ち延びた。三十年戦争が実質的に終戦を迎えると同時に所領のカイザースラウテルンに戻った。 1624年に文芸愛好団体の実りをもたらす会(Fruchtbringende Gesellschaft)に入会し、最終的に帰国した直後の1646年にはカイザースラウテルンの市民14人に同会への入会を許可している。 == 子女 == 1631年12月4日にベルリン・ケルン(Cölln)において、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒの娘マリー・エレオノーレと結婚した。妻は姉エリーザベト・シャルロッテの夫ゲオルク・ヴィルヘルム選帝侯の叔母という姻戚関係であった。夫妻は7人の子女をもうけ、うち2人が成人した。 *カール・フリードリヒ(1633年 - 1635年) *グスタフ・ルートヴィヒ(1634年 - 1635年) *カール・フィリップ(1635年 - 1636年) *ルートヴィヒ・カジミール(1636年 - 1652年) *エリーザベト・マリー・シャルロッテ(1638年 - 1664年) - 1660年、レグニツァ=ブジェク公イェジ3世と結婚 *ルートヴィヒ・ハインリヒ・モーリッツ(1640年 - 1674年) - プファルツ=ジンメルン=カイザースラウテルン公 *ルイーゼ・ゾフィー・エレオノーレ(1642年 - 1643年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルートヴィヒ・フィリップ (プファルツ=ジンメルン公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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